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 もとはさぞや立派な宮殿だったのだろうと容易に察せられる建物も、今となってはすっかり朽ち果てた姿を黄昏どきの朱色の光の下に晒していた。人は誰もいない。いるのは鬼か獣か、そのどちらか。そんな場所になってしまっていた。
 しかし、今日ばかりは鬼でも獣でも、人でもないものがその朽ちた建物へ足を踏み入れる。
 大照天昼子――天界でその名を知らぬものはない、最高神。本来このような場所へ来るはずもないその神が、廃墟とも呼べそうな建物の中へと一歩一歩、歩を進めていた。
 寂れた廊下をしばらく真っ直ぐに歩くと、もとは小奇麗に飾り立てられた広間だったのであろう広い空間に出る。中心部はまだ建物の体を保っていたが、端の方はというと屋根が落ちたのか天井に穴が開いているような有様だった。
 そんな、うらさびれた一角から上がった、場に似つかわしくない声が昼子の耳を叩く。
 赤子、だ。赤子が掠れた声で泣いている。
 昼子がわざわざ己で探しに来たものが、ほとんど傷ひとつ付かない状態でそこにあった。それは、まさしく僥倖だった。殺されていてもおかしくはないと思っていたから。
 これでひとつ手間が省ける、と昼子が一番初めに考えたことはそれであった。もしこの赤子が殺されていれば、また最初からやり直さなければいけなかっただろう。お業を焚き付けたように、また別の、扱いやすそうな神を見繕って下界のことを吹き込んで。
 その手間が省けた。つまり、計画をほぼ筋書き通りに進めることが出来る。これを僥倖と言わずに何と言おう。
 そんな昼子の思惑を知るはずもない赤子は消え入りそうな声で泣き続けていた。まるで、それだけが己の出来ることだと訴えるように。
 疲れないのだろうかと思いながら昼子は腰を曲げると、かろうじて首の座ったほどの赤子をぎこちない手つきで抱き上げる。
 ――存外に、重い。
 初めて人の子というものを抱いた最初の感想がそれであった。抱き上げられた赤子は疲れたのか、抱かれたことで安心したのか、しゃくりあげながらも泣くのを止めた。
 さて、長居をする理由も無し、赤子を連れて天界へ戻ろうとした昼子の眼の端に赤が映る。崩れて煤けた木材や焼け爛れたような壁の中にあって場違いにやたらと鮮やかな、赤。
 何かと視線を巡らせば、血溜まりに倒れた男武者。おそらくは、赤子の父親の死体である。放っておいても良かったが、何かに使えるだろうかと考えてしまったのは神になってからの昼子の癖のせいであった。
 何せ天界の神々といえば一筋縄でまとめられるものではなく、口八丁に手八丁、あれこれと頭を悩ませ策を弄して手綱を握っていなければならない。立っているものは親でも使え、という言葉があるらしいが、昼子が求められたのはまさに使えるものは何でも使うことであった。
 ゆえに、このときも、遺された赤子のためなどという感傷は微塵もなく、ただ使えるなら使おうと思った。
 うつ伏せに倒れ伏した男武者のそばへ歩を進め、血溜まりを踏まないように見下ろす。さて、この死体はどう使えるのだろうか、としばらく頤に指を当てて考えていたところ、ふと、思い付いた。
 人とは、形見というものを求めるらしい。死んだ者の身に着けていたものや髪の一部などを手元に置いて、生きるよすがのひとつとすることだと聞いた。
 この赤子にもそれが必要になるときが来るかも知れない。何せ、これから並みの人間には出来ないことをやってもらう必要があるのだ。もしそれが辛くなったとき、形見とやらは少しばかりの慰めになるかも知れなかった。
 昼子には、そんな機微はわからないのだけれど。だから、もしかしたらそうかも知れないという曖昧な動機しか持てないが、ここに死体として捨て置くよりは役に立ちそうな気がした。
「さて、それではこれを持ち歩ける形にしなくてはいけませんね」
 赤子を抱いたまましゃがみ込み、伏した男武者の背に片手を置く。するとたちまちに焔が立った。不思議なことに熱を持たない炎は、かといって幻覚でもない証にみるみるうちに武者の身体を鎧ごと焦がしていく。黒く炭になった死体はなおも燃え続け、徐々に骨を現し、その骨すらも燃えていく。
 しばらくして昼子の眼の前にあるのは男武者の死体から、白い粉の小さな山へと変わった。屈強な男武者のものとは思えないくらいに少ない白い粉の山。死とはこんなものだ、と昼子は思う。どんなに強き者も偉き者も、男も女も、死せば風に吹かれただけで所在すらわからなくなるような矮小で頼りないものになる。
 この身のもととなった娘を生んだ父も、母も、きっとそうだった――きっとそうなる――。
 よぎったやるせなさはすぐに霧散し、いつもの『大照天昼子』に戻った神は眼前の白い粉の上に手をかざした。瞬間、その場に風が巻き起こり、白い粉がひとところに集まってゆく。そうして集まった粉は渦を巻く風に乗りどんどんと体積を減らしていった。飛び散っているのではない、逆だ。一か所に集まって、集まって、潰れるように圧縮されていく。
 しばらくして風の中に浮いたのは小さな白い環だった。
 もとが人の骨だったとは思えない程になめらかな表面のそれは、まるで意思を持っているかの如く、昼子の抱く赤子の細く頼りない小指に嵌る。
「あら、」
 それは昼子にも予期出来ぬことだったようで、思わずといったふうに小さな声が唇からこぼれた。
「……ただの飾りにしようとしたんですけど……」
 『呪物に近い何か』になった指輪をするりと撫ぜ、昼子はひとりごちる。
「死ぬ前に抱いた強い念は死してなお薄れぬ、ということでしょうか……とはいえ悪さをする気配もありませんから……まあ、これはこのままでいいでしょう。悪さをしたらそのときにまたどうするか考えればいいだけのことですしね」
 用は全て終わったとばかりに踵を返し建物の外へ出ると、まるで見えないきざはしを上るように昼子の身体は朱からほとんど藍へと色を変えた空に吸い込まれていった。
「ああ、そうだ」
 天界まであと少しといった所で昼子がひとつ声を上げる。
「名前が必要でしたね、あなたにも」
 うっかりです。と言った口調に悪びれた様子は微塵もない。
 赤子には父母が付けてくれた名があるのだが、昼子はそれを知らなかった。為そうとする計画の前に赤子の名前などは知る必要のない些事だったからだ。
「そうですねえ、」
 くるりと振り返り、先程までいた山を一目見て。迷う様子もなく昼子は宣言する。
「吾ガ山……拾。うん、あなたの名は『吾ガ山拾(あがやまひろい)』です」
 あの山で拾った子だから『吾ガ山拾』。願いも何も込められぬ、ただ事実のみを示す名だったが昼子にとっては何の問題もなかった。個を識別出来さえすればいいのだ、名前などは。
 すっかり藍に染まった空に取り込まれながらも輝きの褪せぬ白い衣の光をたなびかせて、女神と赤子はゆっくりと天へ昇って行った。
 ひとつの名を失い、ひとつの名を得た赤子は昼子の腕の中で何も知らぬまま眠っている。これから己がどのような道を歩まなければならないのかも知らないままに。今は。

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【吾ガ山一族】山の子